我が闘争

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)

わが闘争(下)―国家社会主義運動(角川文庫)

わが闘争(下)―国家社会主義運動(角川文庫)

角川文庫
平野一郎、将積茂訳
アドルフ・ヒトラー


訳がひどいのか元がひどいのか。
とにかく読みにくい。
頭の方で大衆操作法を示して、後で実際実践して見せる。


大体このどれかに入る。


・わりとまともなことを言っている(主に宣伝の効果とかについて)
・すべての敵をユダヤ人に結びつけるために妄想してる
アーリア人種が最高であることを示すために嘘八百を並べている

以下引用

上巻「I 民族主義的世界観」

「第二章 ヴィーンでの修行と苦難の時代」「若い権威軽蔑者」P56〜57より

 三歳の子供から、すべての権威を軽蔑する十五歳ができあがる。この若者は淫猥とけがらわしいもののほかには、何かより高い感激の刺激となるものはなにも知らないのだ。
 かれはいまや、この生活という高等な学校へ行く。
 今度は、かれが子供のときに父親から摂取したと同じ生活がはじまる。かれはほっつき歩き、いつ家に帰ったのか神でさえもご存じない。そのうえ気分転換のために、かつては母であったくずれかかった存在をなぐりつける。神と世の中をのろい、そしてついになにか特別な原因から罪の判決を受け、少年鑑別所へぶちこまれる。
 そこで最後のみがきがかけられる。
 だが愛すべき当代の市民たちは、この若い「公民」に「国民的情熱」が欠けていることに、まったくあきれる。
 かれらは演劇や映画や、また三文文学やエロ新聞で、毎日毎日、おけから水を流すように民衆の中に毒がそそぎこまれるのを見るのだ。そしてそれについて、この民衆の大群の「道徳的内容」の少ないことや「国民的無関心さ」に驚いている。あたかもインチキ映画やエロ新聞やその類似物が、祖国の偉大さを認識させる基礎を与えているかのように、である。個々の人間がそれ以前に受けた教育については、全く度外視している。

前半は今みたいなもんですかね。
後半は今のドラマやらクソ雑誌や変態新聞みたいなもんで。
わりと同意。
日本のマスコミは国家主義的な物に迎合したことへの反省からなんだろうけど、無用に批判的だよね。頭おかしいっていうか。

「第三章 わがヴィーン時代の一般的政治的考察」「「世論」」P121より

 われわれがつねに「世論」といっているものは、自分でえた経験や個々人の認識にもとづくものはごく小部分だけで、大部分はこれに対して、往々にしてまったく際限なく、徹底的にそして持続的にいわゆる「啓蒙」という種類のものによって呼びおこされるものである。

 このばあい、宣伝ということばが非常にぴったりするが、政治「教育」に図抜けて強力に関与しているものは新聞である。新聞はまず第一にこの「啓蒙活動」を考え、それによっておとなに対する一種の学校をなしている。ただこの授業は国家の手になく、ある部分は最も劣等な勢力の手中にある。

まさにまさに今の日本かと。


「第三章 わがヴィーン時代の一般的政治的考察」「一人の敵への集中」P162より

 概してどんな時代でも、ほんとうに偉大な民衆の指導者の技術というものは、第一に民衆の注意を分裂させず、むしろいつもある唯一の敵に集中することにある。民衆の闘志の傾注が集中的であればあるほど、ますます運動の磁石的吸引力は大きくなり、打撃の重さも大きくなるのである。いろいろの敵を認識することは、弱い不安定な性格のものにとっては、自己の正当を簡単に疑わせるきっかけだけをつくりやすいから、別々にいる敵でさえもただ一つの範疇に属していると思わせることが、偉大な指導者の独創力に属しているのである。

なんでもかんでもユダヤ人のせいにしてるのはこういう効率のことを念頭においてのことなんですね、と。
このあと宗教論争は無駄に力を使うからやめとこうねって話。



「第四章 ミュンヘン」「ドイツ政策の四つの道」P179から

一が人口制限
二が国土開発
三が領土拡張
四が商業国家化
んで三のうち、植民地政策ではなくてヨーロッパでの領土拡張が正解だという結論。


「第六章 戦時宣伝」「宣伝の課題」P237より

 宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目指すべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。しかし戦争貫徹のための宣伝のときのように、全民衆を効果圏に引き入れることが問題になるときには、知的に高い前提を避けるという注意は、いくらしても十分すぎるということはない。
 宣伝の学術的な余計なものが少なければ少ないほど、そしてそれがもっぱら大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる。しかもこれが、その宣伝が正しいか誤りかの最良の証左であり、二、三の学者や美学青年を満足させたかどうかではない。

端的で素晴らしい理論だと思います。
翻訳がとてつもなくクソであることがおわかりいただけますでしょうか。



「第七章 革命」「すべての犠牲はムダであった」P266〜「政治家になろうとの決心」P268より

 かくしてすべてはムダであった。あらゆる犠牲も、あらゆる労苦もムダだった。はてしなく幾月も続いた飢えもかわきもムダだった。しかもわれわれが死の不安に怖れながらも、なおわれわれの義務をはたしたあの時々もムダだった。その時倒れた二百万の死もムダだった。祖国を信じて、二度と祖国に帰らない、とかつて出征していった幾百万の人々の墓はすべて開かれてはならなかったのではないか? 墓は開いてはならなかった。そして無言の、泥まみれ、血まみれの英雄たちが、この世で男が自己の民族にささげうる最高の犠牲をかくも嘲笑にみちた裏切りで、故郷へ復讐の亡霊として送られてはならなかったのではないか? こんなことのために、一九一四年八月と九月にかれら兵士たちは死んだのだろうか? こんなことのために、同年秋に、志願兵連隊は古い戦友のあとを追ったのだろうか? こんなことのために、十七歳の少年は、フランドルの地に埋もれたのだろうか? ドイツの母親たちが当時決して再開しえない悲痛な気持ちで、最愛の若者たちを出征させたとき、かの女たちが祖国にささげた犠牲の意義は、これだったのか? これくらいっさいのことは、いまや一群のあさましい犯罪者の手に祖国を渡さんとするために生じたことなのか?
 こんなことのためにドイツの兵士は、灼熱の太陽や吹雪の嵐の中に、飢え、かつえ、そして凍えながら、眠られぬ夜と、はてしなき行軍に疲れてもちこたえてきたのだろうか? こんなことのために、兵士はつねに祖国を敵の侵略から守るべき唯一の義務を忘れず、退却せずに、連続速射の地獄の中で、また毒ガス戦の熱の中で倒れたのだろうか?
 たしかにこれらの英雄たちも一つの碑銘に値したのだ。
「旅人よ、なんじドイツへ来たりなば、故国に告げよ。われら祖国に忠誠に、義務に忠実にここに眠れる」と。
 であるのに祖国はどうだ−−?

「飢え、かつえ、そして凍えながら」のところの「かつえる」と言う動詞は「餓える/飢える」と書くらしいです。
これ、同じこと二回言ってないですかね。微妙。


最後のところはちょっと「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」(Wikipediaの「テルモピュライの戦い」よりレオニダスの言葉)に似てない?


政治家になろうと決意するまではちょっと離れているので引用はやめときます。


この部分のNHK映像の世紀 The 20the Century in Moving Images」にて使われた訳が非常に美しくて好きです。
こんな感じです。(この部分のみ平野一郎、将積茂による角川文庫の訳ではありません。)

全ては無駄であった
あらゆる犠牲もあらゆる労苦も無駄だった
果てしなく続いた飢えも乾きも無駄だった
しかも我々が死の不安に襲われながらなお義務を果たしたあの時も無駄だった
その時倒れた200万の死も無駄だった
祖国を信じてかつて出征して行った幾百万の人々
こんな事の為に兵士達は死んでいったのであろうか
こんな事の為に17歳の少年はフランドルの地に埋もれたのだろうか
その後数日にして私は自己の運命を自覚するに至った
私は政治家になろうと決意した

この訳は凄まじく上手でまとまってる。
それに引き換え平野一郎、将積茂による角川文庫版の訳はうんこ。


「第九章 ドイツ労働者党」「「委員会」」P286 より

このドイツ労働者党が国家社会主義ドイツ労働者党の前身。
この労働党に勝手に党員資格を送られて、初めて委員会に参加した時のヒトラーの感想はこんなの。

 そこで前の会議の議事録が読みあげられ、書記長に対する信任の辞がのべられた。さらに会計報告の番だった−−総計七マルク五十プフエニッヒがこの団体の財産だった−−、これに対して会計係に全面的な信頼が確言された。これがふたたび議事録に書き込まれた。さらに議長がキールから一通、デュッセルドルフから一通、そしてベルリンから一通の手紙に対する回答文が読みあげられた。それらについて全員が了解した。そこで到着書類が報告された。ベルリンから一通、デュッセルドルフから一通、キールから一通、その到着はたいへんな喜びで受けとられたように思えた。かれらは、文通がひんぱんになったことを、「ドイツ労働者党」の意義が普及していく最善の目に見える兆候であると宣言し、そしてさらに新しく発送せらるべき回答文について、長い相談が行われた。
 ひどい、ひどい。これはたしかに最もひどいインチキな団体マニアだ。とにもかくにもこんなクラブに加入しなければならないのか?
 さらに新加入が話題になった。すなわちわたしをとらえることが問題になったのだ。
 そこで私は質問しはじめた。−−しかし二、三の主旨をのぞいては何もない。綱領もない。ビラもない。一体、印刷物は何もない。党員章もない。そのうえつまらない印ももちろんない。明白なよき信念と、善良な意志があるだけだ。
 わたしは笑うことさえできなかった。というのは、これこそすべて、従来の政党、その綱領、その意図、その活動、これらすべての完全に途方にくれた、まったく絶望的な存在の典型的な兆表以外のなにものでもないからではないか?

注:プフエニッヒの「フ」は小さい字になっているが表記できないため通常のフになっています。
ちょっとコメディっぽい面白さがある。

「第十章 崩壊の原因」ではユダヤ人の新聞とユダヤ人の淫売屋と議会屋が悪いとたたきまくり。

「第十一章 民族と人種」

アーリア人種は最高という妄想オナニーの章。
「文化の創始者としてのアーリア人種」P377〜P378より

われわれが今日、人類文化について、つまり芸術、科学および技術の成果について目の前に見出すものは、ほとんど、もっぱらアーリア人種の創造的所産である。だが外ならぬこの事実は、アーリア人種だけがそもそもより高度の人間性創始者でありそれゆえ、われわれが「人間」という言葉で理解しているものの原型を作り出したという、無根拠とはいえぬ帰納的推理を許すのである。アーリア人種は、その輝く額からは、いかなる時代にもつねに天才の神的なひらめきがとび出し、そしてまた認識として、沈黙する神秘の夜に灯をともし、人間にこの地上の他の生物の支配者となる道を登らせたところのあの火をつねに新たに燃え立たせた人類のプロメテウスである。人々がかれをしめ出したとしたら−−そのときは、深いやみがおそらくもはや数千年とたたぬうちに再び地上に降りてくるだろう。そして、人類の文化も消えうせ、世界も荒廃するに違いない。

実際生活の基礎は、たとえ、日本文化が−−内面的な区別なのだから外観ではよけいにヨーロッパ人の目にはいってくるから−−生活の色彩を限定しているにしても、もはや特に日本的な文化ではないのであって、それはヨーロッパやアメリカの、したがってアーリア民族の強力な科学・技術的労作なのである。

根拠レスなオナニー過ぎる。



「第十二章 国家社会主義ドイツ労働者党の最初の発展時代」「最高権威−−最高責任」P448より

 そたがってこの運動は反議会主義的であり、運動が議会制度へ参加するのでさえ、ただそれを破壊するための、つまりわれわれが人類のもっとも深刻な退廃現象の一つと認めなければならない制度をとり除くための活動という意味しかもちえない。

政権取ったら議会主義をやめて上意下達式組織に変えますよっていう宣言ですね。
すげぇ。これで政権取れたのがすごい。


下巻「II 国家社会主義運動」

「第二章 国家」「民族主義国家の教育原則」P54〜55より

 民族主義国家は、これを認めて、全教育活動をまず第一に、単なる知識の注入におかず、真に健康な身体の養育向上におくのである。そのときこそ第二に、さらに精神的能力の育成がやってくる。だがここでも、その先端には人格の発展、とりわけよろこんで責任感をもつように教育することとむすびついている意志力と決断力の促進があり、そして最後にはじめて学問的訓練が来るのだ。
 その場合、民族主義国家は、次の前提から出発しなければならない。すなわち、実際に学問的教養はさしてないが、肉体的には健康で、善良で堅固な性格をもち、欣然とした決断と意志力にみちた人間は、才知に恵まれた虚弱者よりも、民族共同体にとってはより価値がある、ということだ。

この辺の、健康に重点を置く姿勢ってのは後に「ナチス的政府」って感じで忌み嫌われるようになったらしい。
あと、軍隊も教育に必須だって褒め称えてたけど、ちょっとどっか行っちゃったわ。


「第五章 世界観と組織」「指導と服従」P114より

人々には、政党の強みというものは、決してその党員各員のできるだけ大きな自主的な精神性にあるのではなく、むしろ党員が精神的統率におとなしくついていく規律正しい服従にあるのだ、ということが決してわかっていなかったのだ。

一部の指導者が上意下達式組織を率いるべきだと。



「第十四章 東方路線か東方政策か」「東方政策の再開」P358〜359より

数百年来、ロシアはその上級の指導層にいたこのゲルマン民族的中核のおかげで存続してきた。この中核は今日ほとんど跡かたもなく根絶され抹消されたと見なすことができる。その代りにユダヤ人が登場した。ロシア人自身にとって、自己の力でユダヤ人のくびきを振り払うことが不可能であるように、ロシア人にとってもこの強力な国家を永い期間にわたって維持することは不可能である。ユダヤ人自身は組織の構成分子ではなく、分解の酵素である。東方の巨大な国は崩壊寸前である。ロシアでのユダヤ人支配の終結は、国家としてのロシアの終結でもあるだろう。われわれは、運命によって民族主義的人種理論の正当さをきわめて強力に裏書きするに違いない一大破局の目撃者となるよう選ばれている。

酷い妄想だ。

「第十四章 東方路線か東方政策か」「ロシアとドイツの同盟はどうか?」P367より

 人々はとにかく次のようなことを忘れてはならない。つまり、今日のロシアの統治者達は血で汚れた下賤な犯罪者であること、またかれらは人間のくずであり、悲劇的な時期の情況に恵まれて大国家を打倒し、その指導的なインテリ数百万を粗野な残忍さでもって惨殺し、根絶し、今やざっと十年ばかりの間どんな時代にもなかった残酷きわまる暴政を行ってきていることを忘れてはならない。さらにまた、これらの協力者たちが野獣のような残忍さをとらえがたいうその技術に非凡な融合方法で結びつけて、自分達の残虐な圧政を全世界に加えるのは今日こそもっともよいという使命感をもった一民族に属していることを忘れてはならない。

ロシアの扱いがひどすぎるけど、ヒトラーの頭の中では「ユダヤ人=マルクシスト」でともかく敵ってことなんでしょうがない。