同情

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中村義道 哲学者

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思いやりを望む人種と望まない人種

私は、たぶんこういう家庭に育ったので、「思いやり」を強調する言葉を吐く人をぶん殴りたくなりますし、「思いやり」のある口調に対しても身震いするほどイヤなのですね。日本中を流れる(エスカレータや銀行のATMなど、あるいは新幹線やデパートなどに流れる)あの「思いやりのある」きれいな女声に、耳をふさぎたくなるほどの嫌悪感を抱く理由も、このへんにあると自覚しています。

さて、次のように、人類はなるべく「思いやり」を望む人種となるべくそれを望まない人種とに2分され、互いにわかり合うのは至難の業です。

(1)自分もなるべく他人に「思いやり」を注ぎたい、そして他人もなるべく私に「思いやり」を注いでほしい、というのも、人は互いに「思いやり」を持つべきだから。

(2)自分はなるべく他人に「思いやり」を持ちたくなく、他人も自分に「思いやり」を持たないでほしい、というのも、人間はなるべく「思いやり」を持つべきではないから。

後者は、哲学の「素人」には異様に響くかもしれませんが、ニーチェの「同情害悪論」として哲学業界では有名です(が、今回は立ち入りません)。

以上の2人種のほか、次のような人種もいないことはない。

?自分はなるべく他人に「思いやり」を与えたいが、他人は自分に「思いやり」を注がないでほしい。

?自分はなるべく他人に「思いやり」を与えたくなく、しかし他人は自分に「思いやり」を注いでほしい。

しかし、前者は人道的(自己犠牲的)でありすぎるゆえに、後者はエゴイストでありすぎるゆえに、付き合いにくい人間として自然に淘汰されていきますので、あまり考察の対象にしなくてもいいでしょう(実は、私の理想は?なのですが)。

そこで、初めの2人種に限りますと、特に?の「思いやり派」(あなたや私の妻のような人)は、「他人に思いやりを持つこと」は当然であって、それをしない人、できない人は、鈍感で、冷酷で、自分勝手で――人間としてあるまじきことであると思い込んでいる。たぶん、現代日本人の8割から9割(そして現代日本女性の9割以上)はこう思っているでしょう。

そう、(行為においてはともかく)少なくとも「思い」においては絶対的多数派なのです。それは、あなたの文章の語調からもわかります。夫はすぐ真横にいながら、なぜこんなに苦しんでいる私の気持ちがわからないのだろう? ようやくあなたが苦情を言うと、なんということだ! 「君が悪い」という残酷無情な言葉を投げてきた! 私の要求は当然すぎるほど当然なのに、なぜ夫にはツーカーでそれがわからないのだろう。不思議なことだ……、という「上から下への」目線を感じます。それ以上に、「普通の気持ち」がわからない夫は人間として欠陥があるに違いない……こういう恐ろしい視線さえ感じます。特に、「助けてください」という最後の言葉にそれを感じました。

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思いやり派の「人を裁く姿勢」

私はこういう「思いやり派」の人を見下す視線、キリスト教的に言えば「人を裁く」姿勢に対して、ずっと猛烈な反発を覚えてきました。私は、あなたのご主人の態度に賛成はしませんが、ある程度同じように「反応」するかもしれません。私だったら、バスに乗り込むときに、すぐに子供を抱っこしますが、「誰も席を譲ってくれなかった」というあなたの苦情に対しては、ほぼご主人と同じように、「席を譲ってくれと言えばいいじゃないか」と答えるかもしれません。私は、どちらかというと苦しそうな他人をすぐ助ける人間ですが、それは他人の苦痛を見て忍びないからではなく、そのほうがずっと自分にとってラクだからです。

30代半ばに4年半、その後10年経ってから8カ月ずっとウィーンに住み、さらにその後もウィーンに借家を持って年に2カ月くらい15年間住んだ長いヨーロッパ体験もあるかもしれません。(今はかつてほどではないにしても)ヨーロッパでは20歳くらいから60歳くらいまでの男は、「まとも」と見られたいのであれば、一歩家を出るや否や、見ず知らずの他人(特に女性や老人)をあれこれ助けなければなりません。席を譲ることは当然であり、私のような貧弱な体で体力もない男ですら、重そうな荷物を持っている老人を見つけたら運んであげねばならない(特に電車の乗り降りの際、網棚に上げるときや降ろすとき)。レストランの扉を開けてあげねばならない。そして、彼らも当然のごとくそれを受け入れる。そして、今や私もどこから見ても老人なので、バスでも市電でもすぐに席を譲られ、乗り降りの際には左右から手がさっと伸びて荷物を持ってくれます。私も「ここはこういう文化なのだ」と思いながらも、そのたびにうれしくなります。

しかし、こうした態度は、必ずしも深い道徳に基づいているわけではありません。ウィーン大学の学生の頃、若い男子学生たちに「大変じゃない?」と聞いてみたのですが、「体が自然に動くだけ」という答えが多かった。そして、多くの学生は別に弱者に対する特別の「思いやり」があるのではなく、強い者が弱い者を助けることは、合理的だからにすぎないのです。

このあたりで、今回のご相談に戻りますと、私はどんなに困っている弱者でも、「あなたは私を助けるべきだ、そうでなければ、あなたはまともな人間ではない」という視線を、すなわち私を「裁く」視線を感じたとたんに、助けたくなくなります。でも、私は助けます。軽蔑と嫌悪の気持ちを少々込めて。ヨーロッパにはまだ乞食がいるのですが、私がたまたまおカネをあげるときでも、やはり「軽蔑と嫌悪の気持ち少々込めて」そうします。なぜなら、今、苦しんでいる弱い人々は、具体的に自分のその苦しみが軽減されればいいのであって、「心から」その苦しみを察してくれることまでを望む権利はないからです。

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