思考の整理学

とやましげひこ
以下、極力内容を網羅するようメモ。完全に触れてない章はないはず。私の考えはかっこがきで書いた。

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学校に行くとグライダーのように誰かに習わないと何もできない人間になるから良くない

むしろ教えないで苦労させた方が良い

朝飯前の時間帯は頭の回転が良くなるのでここを大事に使おう
朝飯を抜けば昼間でずっと朝飯前が続くので最高
そのあと昼寝して起きたらまた朝飯前みたいな夕方が過ごせるからさらに最高
(頭おかしい)

何か新しいことを考える時は材料を入れてしばらく寝かせるのが大事だ
見てる鍋は煮えない

自説に拘りすぎるのは危ない、他説もよもう
でもおもねるのは良くない、自説が弱いとただの索引作りになる
でも、他説で短編集作るのも立派な創作だよね
(この辺、頭がおかしい)
既存の説を並び替えるだけのカクテル法を使う学者は自分の色を出さない方が良い
(頭がおかしいと言うか、すでにすぐ前と矛盾してる)

言葉は止まってるのに文章は流れがあるのはなんでだろ
それはともかくアナロジーは大事


(あっ!!全然整理の話をしてなくて全体の流れも説明されてなくて読んでて苦痛な「自己満足バナシ」が続くのはもしかしてグライダー人間にならないようにわざとやってるのかなっっ!!すごい!!かしこい!!)

セレンディピティは大事
一つの主題から離れて他のことをやることで新しい解決策が降ってくることがある



整理とは何か、それは一次的情報を統合して二次的、三次的な抽象化されたメタな思考を作ること。

情報のスクラッピングの方法。
インデクシングが大事ング。


概要は粗い百科事典で得ると良い。詳細調べる前に範囲を決めること。とめどなく虫食いに調べてしまうため。いきなり本を読み始めるのもダメ。

カードでメモを取る場合、出典は全てに書くこと。見出しをつけることが重要。

ノートは少し進んで振り返ってからつけるようにすると本当に重要な所がメモできる。
ノートは索引を作ると一覧できる。

メモは取らないほうが良い。という考え方もある。メモを取らなければ記憶しておくより他はなく、より精度高く記憶できる。
博覧強記。
ただしすぐまとめて記録すること。

書き留めるには手帳を持ち歩くと良い。
生き延びたアイデアは手帳から正式なノートへ写す。
手帳上の番号、転記日をつけること。見出しももちろん。

コンピュータが普及して記憶の外部化が実現した以上、人は倉庫型ではいけない。工場のように創造的でなくてはならない。

忘れるにはリフレッシュメンツが必要。軽い運動や茶菓。

五十年経つと古典化する。
島田清次郎の『地上』のように偉大な作品だと思ったものでも時の関所をくぐっていないものは生木のようなもので風化を経て待ったか違う扱いを受けるようになることがある。
手帳→ノート→メタノートへと腐らず生き延びたものは古典化するのと似ている。

村上春樹ノルウェイの森の永沢さん)



貯めるだけではなく捨てることも大事。
基準は自分自身。ゆっくり時間をかけて選別するより他はない。ただ山のように集めるだけでは倉庫型の人間にしかなれない。

ものを書く時はとにかく一通り終わりまで行くことが大事。
そうして後から改訂して行けば良い。
誰かに話すことも良い。琵琶法師が遂行を重ねた平家物語と同じ。

タイトルは全体の説明から副詞を落として、形容詞を落として名詞のみでだいたいできる。あまり説明しすぎると読む気を落とす。


褒めるのが大事。自分自身でもそうだし、他人でもそう。付き合う相手は選ばないといけない。
ピグマリオン効果の話。

案は披露してはいけない。
推敲が足りねばけちょんけちょんにやられて二度とそれを考えることはなくなるだろう。
しかし意見交換というのは大事なので、自分独自の案を披露することはせずとも会話の場は持つべきである。そういう人のほうが良い成果を出している気がする(感覚的な話かい!!)から。
•みじかな人の名、固有名詞をださない
•過去形ではなく「ではないだろうか」「と考えられる」といった話ができると良い
これらを守らないと会話はゴシップに終わる。害あって益なしである(p.158)
•同業や同じ方面の専攻の人は専門的な小さい話になりがち


また三上の話。馬上、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)。
三多、看多、做多(さた)、商量多は良い事。
推敲の語源。賈島(かとう、ちゃんと変換できるiPhoneすごい)が
鳥は宿る池辺の樹
僧は敲く月下の門
の敲くを推すとどちらが良いか悩みながら歩いていたら、大詩人韓退之(かんたいし)の行列に突っ込んでしまった。説明したところ韓退之は敲くが良いと決めた。


民間療法も割と正しい場合があるから面白い。
(この辺はインターネットがいろいろ駆逐したので状況が異なる)

ことわざは現象を普遍化するので考えを整理するのに良い。

クオリアのはなし。
第一次的現実、第二次的現実と呼んでいるが。
と思ったら違う。
テレビは第二次的現実だという。
うーん。微妙だな。これは実体験が大事だ、というような話にしかならんのではないか。
あぁ、そういうことか)
テレビ視聴、読書などが第二次的現実という扱いで、実体験が第一次的現実。
学生は第二次的現実、主に書物をベースに知的なことを考える。社会人は第一次的現実をベースにして考える。
学生はグライダーでも何がしかできるが社会人は飛行機で無いとできない。

P196

思考の整理ということから言っても、第二次的現実、本から出発した知識の方が、始末がいい。都合よくまとまりをもってくれる。第一次的現実から生れる知恵は、既存の中におとなしくおさまっていない。新しいシステムを考えないといけないことが多い。社会人の思考が散発的アイデアに終わりがちなのはそのためであろう。

漢文の素読って結構いいよね。
新たなものにチャレンジして自ら理解して行く姿勢が必要なので。

拡散的思考と収斂的思考が存在する。
学校の試験では収斂的思考で答えが出るが、拡散的思考=飛行機型の思考がなければ新たなものは出てこない。


産業革命で機械が工場から大量の人間を追い出した。人間は事務所に立てこもった。二百年経ち、今度はコンピューターが人を事務所からも駆逐しようとしている。
コンピューターの普及が早かったアメリカで、創造性の開発が重視されたのはこう言ったことが原因。

あとがきにはやはり、ハウツウものにならないようにしたつもりとの話がある。

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これはひどい本。思いつき、妄想が入っているし同じことを何度も持ち出してくる。最後にはそのわかりにくさ、不親切さはわざとですとか言い出す。
「ようはなんなんだよ!」と叫びたくなるが「そこを考えられるようにならないといけんよ」というスタンスのようだ。
やれやれ。
大事ではあるがめんどくさいわ。