もしどら

ダイヤモンド社の胡散臭い小説。

引用の引用。

働きがいを与えるには、仕事そのものに責任を持たせなければならない。そのためには、?生産的な仕事、?フィードバック情報、?継続学習が不可欠である。(七四頁)

「専門家」という人物が加地とそっくりなことにびっくりさせられた。あまりにも似すぎているため、「これは加地のことを書いたのではないか?」と疑ったくらいだ。

そこまでに加地がそういうキャラクターとして表現されているシーンはない。

成長には準備が必要である。いつ機会が訪れるかは予測できない。準備しておかなければならない。準備ができていなければ、機会は去り、他所へ行く。(二六二頁)

そのような正統性の根拠は一つしかない。すなわち、人の強みを生産的なものにすることである。これが組織の目的である。したがって、マネジメントの権限の基盤となる正統性である。組織とは、個としての人間一人ひとりに対して、また社会を構成する一人ひとりの人間に対して、何らかの貢献を行わせ、自己実現させるための手段である。(二七五〜二七六頁)

成果とは何かを理解しなければならない。成果とは百発百中のことではない。百発百中は曲芸である。成果とは長期のものである。すなわち、まちがいや失敗をしない者を信用してはならないということである。それは、見せかけか、無難なこと、下らないことにしか手をつけない者である。成果とは打率である。弱みがないことを評価してはならない。そのようなことでは、意欲を失わせ、士気を損なう。人は、優れているほど多くのまちがいをおかす。優れているほど新しいことを試みる。(一四五〜一四六頁)

1 トップマネジメントのメンバーは、それぞれの担当分野において最終的な決定権を持たなければならない。
2 トップマネジメントのメンバーは、自らの担当以外の分野について意思決定を行ってはならない。ただちに担当のメンバーに回さなければならない。
(二二八頁)

そのためには、打たせて取ることがだいじだった。そして、ボール球を投げないということも重要だった。それもあって、加地は「ノーボール作戦」を打ち出したのだ。遊び球を投げないことで、投球数を少なくさせようとしたのだ。

そのことに、みなみは自分で驚かされた。それで思わず「あっ」と声をあげると、まだ泣きやまない正義と、それを温かな拍手で包む野球部員とを、呆然と見つめていたのだった。

日本語がおかしい。
「あげると」が違和感の根源。

夕紀の母の靖代に聞いたところによれば、前に言っていた何かの数値が下がらず、なかなか退院の目処が立たないのだそうだ。そのため夕紀の入院は、もうすぐ一年にも及ぶことになった。 そのため、みなみはだいぶ落ち込んだ。夕紀に夏の大会のベンチに入ってもらうことが、みなみの悲願だったからだ。

靖代だけだと誰だかわからないから「夕紀の母の」をつけたんだろうけど、一人称部分につけると違和感ありまくり。
友達の母のことをこの様に脳内で考える高校生はいないだろう。
あと、この近さで「そのため」が二回連続してるのもすごい。
著者の絶望的な文章力と編集者の無能がよくわかる。

成果中心の精神を高く維持するには、配置、昇給、昇進、降級、解雇など人事に関わる意思決定こそ、最大の管理手段であることを認識する必要がある。それらの決定は、人間行動に対して数字や報告よりもはるかに影響を与える。組織のなかの人間に対して、マネジメントが本当に欲し、重視し、報いようとしているものが何であるかを知らせる。(一四七頁)

「ムダだった。全てはムダだったのよ。この一年は、何もかもがムダだった。目的も、目標も、もう何もかもありはしない。全ては意味がなかった。

我が闘争っぽい。