中曽根康弘のプロフィールが今の政治家と違ってかっこよすぎる件。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E5%BA%B7%E5%BC%98

「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです」

なお、終戦時の中曾根の階級は海軍主計少佐となっている。

凄惨だ。
少佐って凄いな。

ウィリアムズバーグ・サミット

1983年、アメリカ合衆国バージニア州ウィリアムズバーグでの先進国首脳会議にて(右から3人目)中曾根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。

議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがパーシングIIクルーズ・ミサイルを配慮すべきか否か、であった。

だが、前向きな姿勢なのは、アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、カナダのトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議はいまにも決裂しそうな気配を見せていた。

そうした状況の中、中曾根は敢然と発言する。

「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。

しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。

大切なのは、われわれの団結の強さを示す事であり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示す事だ。

私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。

しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は、従来、この種の討議には沈黙してきた。

しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。

ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」

これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で

「とにかく声明の案文を作ってみる」

と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官レーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。