三国志

吉川英治
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5巻

「羽将軍、君は武人のくせに、えらい倹約家だな。なぜそんなに物惜しみするのかね」
「え。どうしてです? 特に贅沢したくもないが、また特に倹約している覚えもありませんが」
「いや、やはりどこか、遠慮があるのだろう。曹操が賄うている以上は、何不自由もさせないつもりでおるのに──なにも、新しい衣裳を惜しんで古袍をわざわざ上に重ね着しているにもあたるまい」
「あ。このことですか」
 関羽は自分の袖を顧みて、
「これはかつて、劉皇叔から拝領した恩衣です。どんなにボロになっても、朝夕、これを着、これを脱ぐたび、皇叔と親しく会うようで、うれしい気もちを覚えます。故に、いま丞相から新たに、錦繍の栄衣をいただいたものの、にわかに、この旧衣を捨てる気にはなれません」
と、答えた。
 聞くと、曹操は感に打たれたものの如く、心のうちで、(ああ麗しい人だ。さても、忠義な人もあるものだ……)と、しみじみ、彼のすがたに見惚れていたが、折ふしそこへ、寮の二夫人に仕えている者が迎えにきて、
「すぐお帰りください。おふた方が今、何事か嘆いて、羽将軍を呼んでいらっしゃいます」 
と、関羽へ告げると、
「え。何か起ったのか」
 と、関羽は、それまで話していた曹操へ、あいさつもせず馳け去ってしまった。
 本来、こんな無礼をうけて、黙っている曹操ではないが、曹操は置き捨てられたまま茫然と彼のあとを見送って、
「……実に、純忠の士だ。衒いもない。飾りもない。ただ忠義の念それしかない。…
…ああなんとか、彼のような人物から、心服されたいものだが」
と、独りつぶやいていた。
 曹操は、心ひそかに、自分と玄徳を比較してみた。そしてどの点でも、玄徳に劣る自分とは思われなかったが──ただひとつ、自分の麾下に、関羽ほどな忠臣がいるかいないか──と、みずから問うてみると、
(それだけは劣る)と、肯定せずにいられなかった。彼の意中のものは、いよいよ熱烈に、
(きっと関羽を、自分の徳によって、心服させてみせる。自分の臣下とせずにはおかん)
 と、人知れぬ誓いに固められていた。