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国連が批判する日本の漫画の性表現 「風と木の詩」が扉を開けた
BBC News 3月16日 10時54分配信


国連はこのところ、暴力的なポルノ表現や児童ポルノを含むと日本の漫画を問題視してきた。女子差別撤廃委員会の報告書は、「日本ではポルノ、ビデオゲーム、漫画などアニメが、女性や少女への性的暴力を推進している」と指摘。国連特別報告者は日本を「バーチャルな子供を性的搾取する表現の主要製造国」と呼んだ。漫画やアニメの性表現については、国内でも議論がある。日本の漫画を取り巻くこうした状況の中、漫画界の代表的作家のひとりで、漫画における性表現のパイオニアのひとりでもある竹宮惠子さんに、BBC加藤祐子記者が話を聞いた。

(以降の文中で言及される性描写を不快に思う方もいるかもしれません)

日本の漫画にとって画期的な作品、「風と木の詩」の連載が始まったのは1976年。作者の竹宮さんは26歳だった。19世紀フランスの寄宿学校を舞台にした物語は、裸で横たわる少年2人の絵で始まる。性行為の後の姿だ。

物語はここにいる少年1人と、別の少年を中心に展開する。ジルベールは生まれてすぐに両親に捨てられ、「おじ」に育てられる。幼い頃から強姦と近親相姦を経験した後に寄宿学校に送り込まれ、上級生や教師たちの性的なおもちゃのようにして過ごしている。そこで転校生としてやってくるもう一人の少年、セルジュと出会う。優等生のセルジュは貴族の息子だが、肌の色が黒いからと差別される存在だ。

小学館の少女漫画誌に週刊連載された「風と木の詩」は、あらゆるタブーを正面から取り上げ、次々と打ち破っていった。

「当時は世界、世間そのものが大きく開こうとしていた時期でした。自由への謳歌というものがすごくあった時期です。なので、たとえば愛することに壁はないんだという、それが対象が女性だろうと男性だろうと老人だろうと、とても若い人であろうと、そこに愛というものが育ちうるということを描きたかった」と竹宮さんは創作の動機を振り返る。

1970年代初めまで、日本の少女漫画は主に普通の女の子の恋愛や家族の話、日常のときめきや悩みが主なテーマだった。愛し合う大人同士の口づけ場面でさえ、過激とみなされた時代だった。キス以上に親密な描写といえば、ベッドの上で重なり合う手と手、きらめくろうそくの炎、朝になって聞こえる鳥のさえずりがせいぜいだった。思春期の性の目覚めといえば、憧れの男の子に手が触れたと真っ赤になる少女の姿だった。

そうした中で、竹宮さんをはじめ後に「24年組」と呼ばれる1949年〜50年生まれの作家たちが、少女漫画の地平を押し広げる。ヘッセ、ブラム・ストーカー、スタンダール、デュマ、ドストエフスキーなどの西洋の作家たちに強く影響を受け、愛と憎、生と死といった普遍的テーマを取り上げ、文学として批評に値する漫画作品を次々と発表していった。

とはいえ当時の少女漫画には、あからさまな性描写などないに等しかった。その状況でどうやって編集者に連載を認めてもらったのかと竹宮さんに尋ねると、「できなかったんです。何年も」と答えが返ってきた。

「セックス場面で始まる、まして男同士というだけで、編集者はノーという。そして当時、編集者は中年の男性が多いわけで、当然拒否です。とても分からないし、自分が分からないものを発表させるわけにはいかないというのが基本でした」

そこで竹宮さんは、まず別の連載を成功させて人気作家としての地位を確立し、リスクをとるだけの価値が自分にはあると編集者を説得することにした。自分が思い描く作品にするため、自分自身の知識や技術を増やす必要もあった。

「発言力を高めて、描けるようにした。『風と木の詩』を描く権利を、獲得しなくてはならなかった」

物語の着想から実際の連載開始まで、実に6年かかった。

1970年代後半の少女漫画というと、熱心な固定読者はいるものの、少年漫画と比べれば部数も少ないニッチな市場だった。インターネットなど遠い未来の時代で、少女たちはジルベールとセルジュの物語を親や教師に知られずに楽しむことができた。と同時に、そこに描かれる少年同士の性描写も、親たちに知られずに済んだ。描写は決して露骨でも扇情的でもないが、作品には性行為だけでなく、強姦や近親相姦も出てくる。わずか9歳の男の子が被害に遭う場面もある。

自分の挑戦によって、日本の漫画における性表現の「扉を私の作品が開いたのは事実だと思います」と竹宮さんは認める。そして、以前はないに等しかったものが今や、女性や子供の福祉を脅かしかねないと国連がみなすものにまで発展してきた。

日本政府が2004年に「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」を改正した際、漫画など絵に描かれる児童も規制の対象にすべきという意見が持ち上がり、漫画の性的表現と表現の自由をめぐる議論が噴出した。

この6年後に東京都が提案した「青少年の健全な育成に関する条例」の改正案が「非実在青少年」の性描写を規制対象に含めた際には、京都精華大学の漫画学部長だった竹宮さん(現在は学長)が多くの漫画家と共にこれに強く反対した。このような内容は表現の自由の制限につながり、自分の「風と木の詩」も丸ごと規制されてしまうだろうと竹宮さんは批判した。

非実在青少年」を対象にした規制は改正案から削除されたが、対立軸は鮮明になり、対立の構図は今も続く。一方で、漫画などフィクションにおける性暴力の表現は犯罪を助長するので、その規制は被害者になりやすい児童や女性を保護すると考える人たちがいる。もう一方には、表現の自由に対する国家権力の過剰な介入に反対する人たちがいる。特に後者は、漫画などフィクションの性的表現が犯罪を助長するという考えには統計的な裏付けがないし、日本の刑法はすでに露骨な性器の描写など「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、 又は公然と陳列」することを禁止しているのだからと指摘する。

国連人権理事会から「児童売買、児童買春及び児童ポルノ」 に関する特別報告者に任命されているマオド・ド・ブーア=ブキッキオさんは3月、人権理事会に提出した報告書で、日本を「漫画、アニメ、コンピューターグラフィック、ビデオ、オンラインゲームなどに極端な児童ポルノの描写を含む、バーチャルな子供を性的搾取する表現の主要製造国」と呼んだ2014年の米国務省報告を引用した。

この「バーチャルな子供」、つまり「非実在青少年」の表現が実際の人権を侵害しているのかどうかが、まさにこの問題の根本だ。国連などが批判する漫画やアニメ、ゲームの多くは、竹宮作品のように高い文学性を志すものではなく、ひたすら扇情的なだけだと批判される。そしてたとえフィクションだろうと、そのようなものは規制されるべきだと考える人は多い。

ブーア=ブキッキオさんは報告書でこう続ける。「特別報告者は、表現の自由と児童の権利の間に、適正なバランスを確保する重要性を認識している。ただし、大きな利益を上げる強力なビジネスのために、児童の権利が犠牲にされてはならない。国際的な人権慣習や基準に照らせば、その子供が実在だろうがバーチャルだろうが、子供をポルノ的に表現したものは児童ポルノに相当する」。

国連の批判的姿勢に、漫画研究者の藤本由香里明治大学教授は異を唱える。日本の女子学生の援助交際について挙げた数字をめぐりブーア=ブキッキオさんが、外務省の抗議の後に「公式な数値を受領したことはない」と認めたなどの展開を懸念する藤本教授は、「『マンガやゲームにおける性暴力表現を禁止せよ』と言えば、欧米諸国においては「男性主体の性表現に対するNO」を意味するだろうが、日本ではかなり事情が違う」と指摘する。

「日本では女性が主体となった性表現が、男性向けのそれと同じくらい発展していることが、他国とは大きく違う特徴だ。その中には当然、『性暴力』表現も含まれる。即ち、日本において『性暴力』表現を禁止することは、これまで営々と築かれてきた女性たちによるオールタナティブな性表現に対してもNOを突きつけることになるのだ。表現を『禁止』することによっては現実は変わらない。むしろ『性は危険でもありうる』ことを伝えることこそが現実を変えると信じて女性作家たちは表現してきた。その営為を止めてはならない。国連は、表現を問題にすれば、『現実の問題を解決する』ことをかえって阻害することを認識すべきだ」

参議院山田太郎議員も同様に、国連の批判を批判する。

非実在児童に対する描写は、具体的に誰かの人権を侵害しているとは思えない。それを見て不快になる人の人権を侵害するというなら、その人が訴える権利や制度を整備すればいい。しかしどういう影響を与えるか分からない表現を、法律という強い権力で、元から取り締まってはいけない。誰かが傷つくかもしれない、誰かが差別されるかもしれないという可能性を取り締まってはならない。規制はどんどん拡大解釈されていくものだ」

こう指摘する山田議員は、現実的には政府が非実在青少年への表現を規制するような事態にはならないだろうと見ているが、国連や東京都などの一連の動きによって、作家や出版社が自主規制してしまうことの方が問題だと懸念する。

これに対して少女漫画家の真崎春望さんは、自分や周りでそのような自主規制や萎縮の傾向は感じないと話す。むしろ「何でも自由に表現したいなら、個人的なアートとして地下でやればいい。しかし漫画には常に読者がいる。作家はそこの誰に向けて何を描いているのか、意識すべき。国連に言われるからとかの問題ではなく、作家の良心と創造性の問題だ」という意見だ。

一方で、日本社会が長年、絵の中の性表現について実際に自主規制してきた具体的な前例はある。浮世絵の春画だ。

日本美術に詳しい作家・編集者の橋本麻里さんは、「ロンドンをはじめ欧米で大規模な展示が成功して初めて、日本でも初の大々的な春画展が2015年に開かれることになった」と指摘する。

橋本さんによると、春画では夫婦の房事の横に子供が描かれていることが少なくない。当時としては当たり前の家庭生活の一コマだったからだ。しかし現代の倫理観に照らして、各地での展示会ではそれとなく外されているという。

「表現を創りだす側、表現を研究し紹介する側が、その行為を自ら規制しなくてはならないと萎縮するような事態は、文化の成熟を阻害します」と橋本さんは懸念する。

「実在の児童に対する性的搾取、性的虐待についてはもちろん、許されるものではありません。大前提として、そうした事態を解決するための取り組みには、今後いっそう注力していくべきだと考えています。しかしそれが『児童ポルノを含む漫画を禁止すべき』かどうかという、非実在の児童をめぐる表現の問題となった場合、責任ある判断のできる年齢に達した成人で、かつその表現を許容する人の間でのみ流通するのであれば、一律に禁止すべき理由はない、と考えます。表現について、一定のゾーニングや年齢制限などを社会的合意の下に明文化して課し、その枠の中で自由に表現することを許容する国であってほしいと、願っています」

この問題について、日本では意見が割れている。表現の自由保護を何より重視する人もいる。優れた作品と、下品でわいせつなものに過ぎないと思うものとの間に、線を引く人もいる。特に関心のない人たちもいる。国民的合意はできていない。

意見が割れる理由のひとつに、欧米と日本の微妙な感覚の差があるかもしれない。日本では人気商品から人気音楽に至るまで、「かわいい」の価値観が大衆文化に浸透している。このため幼い子供の姿の描写について、日本人は欧米人のようには神経質ではないのだという見方もできるかもしれない。

物語を伝えるために、なぜ9歳の幼い少年に対する性暴力など、読んでいて辛い描写が必要だったのか。竹宮さんは「現実にそういうことが起きるから。隠したところでなくならない。そういうことがあると認めざるを得ないのだと、伝えたいから。そして暴力を受けた少年たちの力強さを描きたかった。性暴力を受けても、乗り越えていく人がいるということを知ってほしかった」と説明した。

1970年代後半、子供の強姦被害や近親相姦被害の話題が主なメディアで公然と語られることはほとんどなかった。まして、少女漫画では。そんな中で竹宮さんは、父親に強姦されたことがあるという読者の手紙を受け取った。

「実際にそういう目に遭っている人が、私の漫画を読んで自分だけではないんだと、自分は独りではないと知り、この作品が私を救ってくれると書いてきた」と竹宮さんは言う。

このファンレターの内容が本当かどうかは確かめようがなかった。しかし、人間の本能を否定することは決して答えにならないと竹宮さんは確信している。

パンドラの箱を私が開けたのかもしれない。けれども箱を開けなくては、希望の光は出てこられなかったのです」

(英語記事 The godmother of manga sex in Japan)

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